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世界を股かけて活躍する“三冠王”弁護士
日本の弁護士として初めて香港海外弁護士試験に合格

2014.05.21

絹川恭久 弁護士インタビュー

弁護士法人キャストの弁護士で、村尾龍雄律師事務所(香港)所属の絹川恭久は2014年2月、香港海外弁護士適格試験(Overseas Lawyers Qualification Examination)に合格した。日本の弁護士として初の快挙だ。これにより、日本国弁護士、ニューヨーク州弁護士、香港弁護士の“三冠”を達成した。 これまで東京、沖縄、シアトル、ハワイ、香港と世界を自在に行き来し、企業法務から渉外法務、一般民事、刑事まで、オールマイティに活躍してきた。現在は、香港を拠点に日本の中小企業のグローバルビジネスの発展のために汗を流す。「ワークライフバランス」の実現を重視し、アウトドアを趣味にする褐色の肌がトレードマークの絹川に、これまでの歩みや今後の夢を語ってもらった。

弁護士の“三冠王”を達成

2014年2月、絹川恭久は日本の弁護士として初めて、香港海外弁護士適格試験に合格した。同試験は、香港の外国人を対象とした司法試験で、合格すれば香港で弁護士(ソリシター:一般の法律相談や書類の作成、一定程度の法廷活動をする弁護士のこと)を務めることができる。

絹川にとって2014年の受験は3回目だった。この3年間、仕事の傍らイギリス人の家庭教師をつけるなど、試験勉強を続けてきた。同試験は「日本の司法試験と同等レベル」(絹川)で、かつ英語での受験のため、英語を母語としない者にとっての難易度は高い。「一番厄介なのは、英語で2時間余り質疑応答する口述試験を受けなければならないことです。香港の法律はイギリスやアメリカ合衆国などの英米法系(コモンロー)で、ドイツ法やフランス法などの大陸法の影響を受けた日本の法制度とは違うため、その点も不利でした」と絹川は振り返る。

絹川はこれにより、日本国弁護士、ニューヨーク州弁護士、香港弁護士の“三冠王”を達成したことになる。これまでは香港で、主に香港弁護士とクライアント企業の間の橋渡し役を務めてきたが、今後は自ら直接、案件に関与していくことが増えそうだ。

理屈が通らないことが嫌い

絹川恭久 弁護士インタビュー

絹川が生まれ育ったのは神奈川県相模原市で、小学校4年で隣の東京都町田市に引っ越した。「相模原も町田も半分都会で半分田舎でした。小学校時代は、夏休みに塾へ通う道すがら、クワガタやカブトムシを採って遊びました。いまでも自分は大都会が苦手で、高層ビルと人ばかりの場所に長くいると息苦しくなり、疲れてしまいます」(絹川)。

絹川は、幼稚園で催されたクリスマス会に登場したサンタクロースを見て、「園長先生だ!」と見破るような子どもだった。小さな頃から理屈が通らないことが大嫌いという、根っからの弁護士向きの性格だったようだ。

中学校受験で、中高一貫の進学校の駒場東邦中学校・高等学校に合格した。「勉強は好きではありませんでしたが、苦労はしなかった」という絹川は、自由闊達な校風の中でのびのびと育った。クラブ活動は中学から高校まで一貫してサッカー部に所属したが、「サッカーに燃えた訳ではなく、何かに夢中になることもなく、漠然と日々を過ごしました」という。

大学受験では、東京大学法学部に現役合格した。特に将来やりたいことはなく、仕事の選択肢が広そうだという理由で、法学部を選んだのだという。

司法試験に目覚めたきっかけ

大学時代は勉強に熱中することもなく、「気が向くままにいろいろなことに手を出した」という。そのひとつが、中国への“貧乏旅行”だった。当時は、中国経済の高度経済成長が始まり、世間では今後中国が大きく伸びると言われていた。そのため、東京大学でも中国語を勉強する学生が増え、絹川も第二外国語に中国語を選択した。これをきっかけに中国に興味を持った絹川は、大学1年の夏休みに同級生と2人でバックパッカーとして上海、北京、西安を旅行した。「上海までは船で行き、中国国内は列車で回りました。列車では『硬座』(二等車)を利用し、同車した地元の人たちと片言の中国語や筆談で交流しました。当時の中国の人々は、お金はなさそうでしたが、とても人懐っこく、素朴で、親しみやすかったです。大学3年の夏休みにも中国を再訪しました」。

その一方で、大学2年から司法試験の予備校に通い始めた。所属するサッカーサークルの仲間の同級生が予備校に通うのを見て、刺激を受けたことがきっかけだった。弁護士を志望したのは、「サラリーマンとして型にはまった会社人生を送るよりも、自由度が高そうな弁護士の方が面白そうだ」と考えたからだった。そんな中途半端な動機だったため、当初は授業中居眠りするなど予備校の勉強に身が入らなかったという。

絹川を目覚めさせたのが、大学3年の就職活動での出来事だった。弁護士を目指す傍ら、合格しなかった時のための保険として一般企業への就職活動も行っていた絹川は、ある日、大手日本企業の就職説明会に参加した。そこには400~500人の学生が詰め掛けていた。「同じ色のリクルートスーツを着た何百人の学生といっしょに説明を聞いて、ふとその中に埋没している自分がいやになってきました。エントリーシートの作成にも力が入らず、結局書類選考にも引っかかりませんでした」。そして、同じ時期に初めて受験した司法試験にも不合格。そこから、絹川は司法試験の準備に真剣に乗り出した。

2002年、大学を留年して臨んだ2度目の司法試験に見事合格を果たす。「合格を知って、ほっとしました。これでやっと実家を出て、自立できると思うと無性にうれしかったです」。

沖縄の弁護士事務所に入所

2003年3月に大学を卒業し、その年の4月から1年間、司法修習を受けた。「修習地は第一希望だった沖縄県那覇市でした。それまで日本国内あちこちを旅行していましたが、沖縄県には行ったことがなく、沖縄の生活や習俗に興味がありました」。

修習時代は、修習の傍ら、離島の浜辺でキャンプをしたり、ダイビングをしたりと、アウトドアを満喫した。また、沖縄の伝統楽器である三線や伝統芸能のエイサー、沖縄空手などにも触れた。「典型的な日本の核家族の家庭で育ったためか、沖縄の家族や社会の絆の強さに感銘を受けました。また基地問題では、沖縄の論調と東京の論調がまったく違うことを知り、東京の論調に一方的なものを感じることもありました」という。

沖縄の魅力に取り憑かれた絹川は、修習後も沖縄に留まることに決めた。04年、那覇市の当山法律事務所に入所し、弁護士としてのキャリアを開始する。

同事務所は、企業法務から一般民事まで幅広く扱っていた。「ある離島の担保権を巡る訴訟が、強く印象に残っています。先輩に助けられながら、最初から自分で手掛けた初めての案件で、裁判所にも立ちました。米軍関係者の家族の刑事事件の弁護など、沖縄ならではの案件も少なくなかったです」。

絹川は当山法律事務所に4年間勤務すると、08年6月に退職し、アメリカに発つ。「4年間の勤務を経て、弁護士としてある程度自信が付いてきました。次のキャリアについて考えていた時に、先輩弁護士の中に沖縄からアメリカに留学し、アメリカの弁護士資格を取得している人々がいることを知りました。当時は独身で自由の身でしたし、もともと海外志向で、渉外事務所で働きたいと考えたこともあり、自分も挑戦することにしました」。

ニューヨーク州司法試験に合格

2008年6月、ロサンゼルスに渡った絹川は、南カリフォルニア大学で約1カ月語学研修を受けると、同地で購入したフォルクスワーゲンで1カ月かけて、留学先のワシントン大学があるシアトルまで西海岸をゆっくりと北上した。途中、西海岸に住む友人を訪ねるなど、旅行を楽しみながらの移動となった。

ワシントン大学ロースクールでの生活は、それまでのつかの間の休息が嘘のようなハードなものだった。「授業についていくのが大変でした。英語が聞き取れず、聞くことに集中するのに精一杯。予習もたくさんあり、一時はノイローゼになりかけました」。

苦労をしながらも、2009年6月にワシントン大学ロースクールを無事修了すると、知人の弁護士が留学していたハワイ州ホノルルに移り、Bays Deaver Lung Rose & Holma法律事務所でインターンシップを始める。同事務所はアメリカ人が経営する中規模のローファームで、絹川は日本語をしゃべる弁護士のアシスタントを務めた。

2010年2月には、ニューヨーク州司法試験に合格。英語での筆記試験だったが、「英語力が余りないため、合格する自信はなかったのですが、試験だけは受けることにしました。ところが、結果は合格だった。日本での実務の経験などが生かされたのだと思います」と絹川は振り返る。

その後、やはりホノルルのOtsuka & Associates法律事務所でインターンシップを続けた。「Otsuka & Associates法律事務所は、日本人弁護士が経営するハワイでも珍しい弁護士事務所です。日系人や日本人移住者の案件を中心に手掛けており、私はここで企業の知的財産や交通事故などの案件のお手伝いをさせてもらいました」。

弁護士法人キャストへ参画

絹川は、ハワイでのインターンを終えると沖縄に戻った後、半年間の“専業主夫”を経て、2010年10月に弁護士法人キャストへの参画を果たす。これからはアジアの時代と考えた絹川は、アジアに強い弁護士事務所を探した。そこで出会ったのがキャストグループだった。沖縄、シアトル、ハワイと渡り歩いてきた日本の弁護士としては“規格外”のキャリアが災いしたのか、他の事務所の反応は余りよくなかったが、中国を中心としたアジアの案件を強みとするキャストとは相性がよかったのだろう、すぐにオファーが届いたという。

絹川は同年10月から約半年間、弁護士法人キャスト東京事務所で勤務し、続いて11年末まで大阪事務所で務めた。「東京と大阪では、中国語ができないため、香港が関係した英語を使う案件や、国内案件を担当しました。また、村尾龍雄律師事務所(香港)の立ち上げにも関わりました」。その後、2012年1月に、開業したばかりの村尾龍雄律師事務所(香港)へ出向し、同事務所代表に就任した。

中小企業のグローバル事業の発展のために

絹川恭久 弁護士インタビュー

村尾龍雄律師事務所(香港)の開業から約2年半が経過した。絹川はこれまで、さまざまな日本の企業のグローバルビジネスの発展のために汗を流してきた。「キャストグループは、村尾龍雄律師事務所(香港)を設立する以前もキャスト投資香港を通じて香港で事業展開を図っていましたが、村尾龍雄律師事務所(香港)の設立以降、少しずつですが案件が増えています。香港では日系企業と日本人のクライアントに、企業法務から一般民事までオールマイティに法務サービスを提供しています。その中でも特に私が力を入れているのが、日本の中小企業のグローバルビジネスの支援です」。

日本の市場縮小を背景に、近年は大企業だけでなく、中小企業もグローバル市場を見据えた展開に乗り出している。こうした中、絹川は香港の優位性を利用した中小企業のグローバル事業の支援を手掛けることが多くなっている。香港に法人を設立し、そこを拠点に東南アジアなどの海外でのビジネスを拡大していくケースが増えているのだという。「香港は日本と地理的に近く、英語が通用します。また法制度も整っています。こうした優位性を持つ香港を活用しない手はないです。たとえば、いきなりインドネシアに法人を作り、インドネシア市場に売り込んでいくことも可能ですが、それよりも英語、中国語、日本語ができる人材が豊富な香港から、ASEAN地域の市場開拓をオペレーションする方が、日本の企業にとっては結果的に効率がよくなると思います」と、絹川は香港活用のメリットを説明する。

専門家として海外市場の魅力を伝えていきたい

2014年春、香港市場における日本企業のIPOの華々しいニュースが話題をさらったが、絹川は「村尾龍雄律師事務所(香港)ではむしろ大手事務所が扱わないような日本の中小企業の地味な案件を大事にしていきたい」という。

絹川が「日本の中小企業のグローバルビジネスの発展の支援」とともにライフワークにしているのが、「ワークライフバランス」(仕事と生活の調和)の実現だ。アウトドアを趣味にし、香港でもサッカーやソフトボールの同好会に所属する、褐色の肌がトレードマークの絹川は「香港は海も山もありますが、基本的には人工的な都市です。アウトドア好きとしては不満もありますね」と話す。理想は、香港と東京、それから沖縄を往復しながら、それぞれの地で仕事と生活を楽しみ、ワークライフバランスを実現していくことだという。

これまで、海外でさまざまな経験を積んできた絹川は、海外における日本人や日本企業の水先案内人になることを目指している。また、先々には海外の人や企業に日本のよさを知ってもらう取り組みにも携わりたいという。「そのための手段として、まずは日本企業の間で、香港を活用したビジネスモデルを広めていきたいです。香港にいるだけでは訴求が難しいため、今後は日本の地方にも足を運び、セミナーなどを通じ、専門家としてその魅力を伝えていきたいです」という。

中小企業のグローバルビジネスの発展が日本経済の命題のひとつになる中、世界を股にかける“三冠王”弁護士の今後の活躍が期待される。

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