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日本留学、日本税理士事務所勤務を経て中国会計士へ
キャリアウーマンとして、2児の母として、全力投球の日々

2010.07.29

永田麻耶 中国会計士インタビュー

キャストコンサルティング取締役兼キャストコンサルティング(上海)有限公司副総経理の永田麻耶は上海で生まれ、大学時代に日本語弁論大会で優勝したことをきっかけに日本へ留学する。アルバイトと勉強に明け暮れる日々を送った後、京都大学経済学部を卒業。日本の税理士事務所に勤務した。その間、日本人男性との結婚、出産、離婚を経験。02年から公認会計士三戸俊英事務所に勤務し、04年、キャストコンサルティング(上海)に籍を移すと上海に戻る。05年には中国会計士の資格を取得し、キャストに欠かせない有力会計士のひとりとして活躍してきた。キャリアウーマンとして、2児の母として、全力投球で過ごしてきた永田のこれまでを振り返る。

日本語弁論大会優勝をきっかけに初訪日

「上海の人民広場の側で生まれました。ごく普通の子どもとして育ち、特に目立つところはありませんでしたが、勉強だけは好きで成績はいつも良かったです」と永田麻耶(旧姓:孟耶)は話す。中学、高校は、成績優秀者として上海では数少なかった寄宿舎制の重点学校に進み、85年、上海復旦大学外国語言文学部に入学、日本語を専攻した。

「外国に漠然とあこがれていて、外国語学部を選びました。日本語を専攻したのは偶然で、大きな理由はありませんでした。恥ずかしい話ですが、大学時代は友達やボーイフレンドと遊んでばかりで、それほど熱心に勉強をしませんでした。あの頃、もっと勉強しておけばよかったと今でも少し後悔しています」 88年、大学3年のときに、永田は上海教育国際交流協会と京都外国語大学が主催する「上海市大学生日本語弁論大会」に参加した。

「この日本語弁論大会は今年で24回目になる歴史のある大会です。私が参加したのは第2回で、復旦大学、上海外国語大学、上海貿易学院など、日本語学科を置く上海の大学5、6校の学生が参加しました。優勝者は2週間の日本旅行に招待されるとあって、参加者の多くの学生は力が入っていたようですが、私は優勝しようという野望がまったくなく、先生に勧められるがままなんとなく参加しました。10分程度のスピーチを終え、会場で結果が発表されました。結果は私が優勝しました」

弁論大会の数週間後、永田は京都外国語大学の先生の同伴で、京都や奈良、広島などを2週間かけて回った。この初訪日では、上海―大阪、神戸を結ぶ定期便「鑑真丸」を利用したが、その後永田はこの鑑真丸で日中を何度も往復することになる――。

国営旅行社で旅行ガイドの仕事を経験

永田麻耶 中国会計士インタビュー

89年7月、永田は大学を卒業し、国営の旅行会社、上海錦江グループ日本部に入社した。

「当時、上海の女の子の間では、旅行ガイドが花形の仕事のひとつでした。私は1年後に、日本に留学することが決まっていました。そのため腰掛の仕事でしたが、日本の旅行者を担当するガイドの仕事に就きました」

永田が大学を卒業する1カ月前の6月に天安門事件が発生した。ノンポリだった永田は、ボーイフレンドと上海の人民広場から外灘までデモ行進の後ろについて歩いたという。

「野次馬気分でした。上海では比較的平穏なデモ行進が行われました。北京であれだけ大きな事件が起こっているとは想像もしませんでした…」

上海錦江グループ日本部で、永田は日本からのツアー団体や個人旅行者を連れて、上海や近郊の観光地を回った。駆け出しのガイドの永田は、失敗ばかりしていたという。

「なんとなく憧れてガイドになったのですが、実際にやってみると自分にまったく合わないことが分かりました。ガイドは時間の管理が大切ですが、当時私は時間の観念がいい加減で、何度も飛行機に乗り遅れたり、電車に間に合わなかったりと、まったくもってガイド失格でした。お客さんを連れて、走り回ってばかりいました。当時、失敗ばかりしていた自分を思い出し、私は今でも若い人を余り怒れません。なんであれほどいい加減だったのか、今考えると不思議ですね」

日本へ留学。様々なアルバイト経験が今の原点に

日本語弁論大会で優勝したのをきっかけに、永田は日本への留学を決めた。当時、上海は留学ブーム。永田の周りの日本語学科の同級生で日本へ渡るひとは少なくなかった。永田の家は経済的にけっして恵まれていなかったが、両親が親戚などから借金し、私費で留学することになった。留学すればなんとかなる――当時はみんながそう思っていたという。

90年5月、旅行社を退社し、鑑真丸で日本へ渡った。

「ガイドの仕事には未練はありませんでした(笑)。実家を離れることにも不安はまったくありませんでした。もともと中学から寮生活でしたし、とっくに自立しているつもりでした。むしろ家を離れられるのがうれしくて、うきうきしていました。女性の留学生でホームシックになる友達がいましたが、私は毎日、自由を謳歌し、のびのびと過ごしました」

京都外国語大学の先生が保証人になった縁で、永田は京都の日本語学校へ入学した。その後、14年間、永田は京都で過ごすことになる。

「2年間、日本語学校に通った後、92年から2年間、京都大学大学院文学部に聴講生として通いました。この4年間は実際にはバイトばかりしていました。学費と生活費を稼ぐためでしたが苦労とは思いませんでした。むしろいろいろなひとと出会え、楽しかったです」

永田はあらゆるアルバイトを経験したという。旅館の売店の売り子、仲居、ガソリンスタンドの店員、中華料理屋の店員、ホテルの掃除係…。

「当時の経験は、今の私の原点になっています。ちょっとした苦労ではヘコタレない、精神力を養うことができました。学校に行きながらバイトもしなければならず、ほとんど休みがありませんでした。しかし、当時私は『将来、自分はきっと立派になる』と固く信じており、毎日が楽しくて仕方ありませんでした」

自転車をマスターして挑んだ新聞配達

永田麻耶 中国会計士インタビュー

たくさん経験したアルバイトの中でも、特に印象に残っているのが新聞配達だ。

「日本に行って最初の1年目に経験したバイトが新聞配達でした。早朝4時に起きて新聞配達をし、日中は学校で勉強、夜は10時まで中華料理屋で働きました」

日本に行く前、自転車が乗れなかった永田だったが、京都に着いた次の日、自転車を購入した。

「バス代が高く、毎日乗れないので、自転車が必要でした。自分ひとりで練習し、火事場の馬鹿力ではありませんが、30分でなんとか乗りこなせるようになりました。ところが、ブレーキを知らず、五条大橋を下りる際に自転車が止まらなくなり、危うく大事故になるところでした。今考えるとまったく無鉄砲でした。寮に戻って『(自転車にも)ブレーキがあればいいのにねっ』と友達に話すと、呆れられながらブレーキの存在と掛け方を教えてくれました」

自転車をマスターした永田は、京都新聞の販売店で新聞配達のアルバイトを始めた。新聞を積んだ自転車はとても重く、一回倒れると新聞を外してからでないと起こせなかったという。

「最初は簡単だと思っていましたが、雪の日などすごくハードでした。周りは男性ばかりで、女のバイトは私だけでした。新聞配達は朝が早く、休める日も少ないので、なかなか続けられるひとがいないと後で知りました。結局、1年続けましたが、ここで精神的にも体力的にもずいぶん鍛えられたと思います」

バイクで大事故に遭うも京都大学を無事卒業

94年4月、永田は京都大学経済学部に入学した。京都大学時代も永田の生活に大きな変化はなかった。勉強とアルバイトで4年間があっという間に過ぎていった。

「バイトに力を入れすぎ、大学4年は卒業のための単位を取れるかギリギリでした。大学4年はバイトに授業に、就職活動にと、とにかく慌しかったです」

4年生の5月、永田はバイク事故を起こす。アルバイトを終え、原付自転車で帰宅途中、疲れから居眠りし電柱と正面衝突。腕の骨と大腿骨を骨折する大事故となった。

「入院中は本当に焦り、精神的に追い込まれました。せっかく3年間大学通ったのに、卒業できなかったらその努力が台無しになると、とにかく早く退院したかったです。その焦りようは相当なもので、今でも単位が取れず卒業できない悪夢を見るくらいです」

入院中、永田は日本人男性と結婚する。退院すると松葉杖を突きながら学校に通い、98年3月に無事卒業した。

結婚、出産、離婚を経験。三戸俊英事務所との運命の出会い

卒業前、妊娠した永田は友達の勧めで税理士の勉強を開始。双子の息子を出産した後、99年から2001年まで京都の税理士事務所で働いた。そして02年、離婚する。

「離婚をきっかけに、子どもを連れて上海に戻ることを考えました。ひとまず子どもを日本に預け、鑑真丸で上海に戻っていろいろ調べると、当時の上海のお給料ではふたりの子どもを養っていくのは難しいことが分かりました。途方にくれた私は、子どもは上海の実家に預け、自分ひとり日本で働こうかと帰りの鑑真丸で思案していました。その時に何気なく船内の古新聞をめくっていると、公認会計士三戸俊英事務所の求人広告が目に飛び込んできました」

求人広告には「税務の知識必須。中国語ができれば尚可」とあり、「これはまさに私のことだ」と永田は確信したという。

神戸港で鑑真丸を降りた永田は、すぐに三戸俊英事務所に電話をした。履歴書を持ち歩いていた永田はその足で大阪の事務所まで出向いて面接、採用となった。

「三戸事務所には本当に感謝しています。当時、子どもも育てていけるか分からず、絶望的な状態だった中、拾って貰ったという気持ちでした。採用が決まると、必死で頑張ろうと思いました」

キャリアウーマンとして、母として

永田麻耶 中国会計士インタビュー

02年から2年間、永田は三戸事務所で日本の税務の仕事に携わり、04年8月、キャストコンサルティング(上海)有限公司に籍を移し、子どもを連れて上海に戻った。

「中国語を生かすためにも上海で働いた方がいいと、キャストグループ CEOの村尾に勧められました。子どもも小学校に上がり、働きながらではなかなか面倒が見られないため、両親のいる実家で育てた方がいいだろうと帰国を決意しました」

上海に戻ってから6年が経過した。

「とにかく最初は14年間も上海を離れていたので、右も左も分からず、一から勉強のし直しでした。すぐに中国の会計士の勉強も始め、05年に中国会計士の資格を取りました。この6年間、村尾や三戸、永野の下で勉強し、いろいろ蓄積させてもらいました。キャストコンサルティングはコンサルティング会社のため、会計士も会計だけでなく、投資関係から申請、監査、税務、調査など、あらゆる分野の知識が必要です。広範な知識を吸収しつつ、たくさんの経験を積んできました。私の強みは、日本の会計の知識があり、同時に中国の会計、税務、法務に関する幅広い分野の知識と経験があるところだと思います。今後もこれらを生かし、日系企業のお客様の発展、キャストの成長に貢献していきたいですね」

永田は会社で「回遊魚」と揶揄されている。

「私は仕事大好き人間なんです。暇になると体調不良になるくらいで、忙しい時の方が生き生きしています。だから回遊魚(笑)。仕事の最大の醍醐味は達成感ですね。お客様の問題を解決できた時の達成感は何事にも変えがたいです」

休日返上で働くキャリアウーマンである一方、母としての義務も全うしている。最近は7時半に自宅に戻り、まもなく中学に上がる息子ふたりの勉強を毎日見ている。

「私は勉強が得意だったので息子たちもそうだと決め付けていましたが、そうでもないんです。最初は焦っていましたが、いまは半分達観し、高望みするのはやめました。普通に常識があり、思いやりのある優しい人間に育って欲しいと思っています」と永田はやさしい母の顔で語っている。

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