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民事から企業法務まであらゆる法務を経験
“自己実現”追い求めるベテラン弁護士が次に目指すのは「中国」

2010.04.22

柴田正人 弁護士インタビュー

弁護士法人キャストの東京代表弁護士、柴田正人は、民事から企業法務まで幅広い分野で豊富な実績を持つベテラン弁護士だ。1994年に東京弁護士会に登録後、一般国内事務所に勤務し、2001年にニューヨーク大学ロースクール修士課程を終了、ニューヨーク州弁護士の資格を取得した。その後、米系および国内大手法律事務所でキャリアを積み、大和證券SMBC企業提携部に移籍し約2年半の間勤務、07年には弁護士法人キャスト糸賀に参画した。民事から企業法務まで幅広い法務案件を経験し、米国留学や証券会社勤務など多彩な経歴を持つ“自己実現”を常に追い求める柴田弁護士は現在、キャストグループで中国法務にフィールドを拡げ貪欲に中国案件に挑んでいる。

東京と広島を往復した少年時代

柴田正人は東京都世田谷で生まれるとすぐに、サラリーマンだった父親の転勤先の広島に引っ越した。その後、小学校へ入学する直前に東京に戻り、小学校5年でまた広島に。さらに中学2年で再び東京へと、東京と広島を幾度も往復した。

「少年時代は勉強もせずに外を遊び回っていました。毎日放課後、下校時間まで夢中で遊んでいましたね」

スポーツが大好きな活発な少年だった柴田は、小学校1年で同じ社宅に住む友達と剣道場通いを開始し、その後広島県代表として全国大会への出場を果たす。

小学校、中学校と、勉強もそこそこに、のびのびと育った柴田は、中学3年から高校受験のために塾へ通い始める。

「高校受験では東京都国立市にある進学校に進学しました。高校時代は剣道部やサッカー部に一応所属していましたが、途中で辞めてしまいました。あの時期にもっと時間を有効に使っておくべきだったと、今でも後悔しています」(柴田)

高校を卒業すると1年間の浪人を経て、東大法学部に合格した。まだ弁護士を目指していた訳ではなく、「なんとなく法学部だった」という。

東大ボート部に入部も……

柴田正人 弁護士インタビュー

大学入学時は将来の夢もぼんやりとしており、目標もなかった。そんな中で、柴田が惹きつけられたのが「オリンピック出場」だった。

「あの頃の東大ボート部は強くて有名でした。『全日本』で4連覇していました。オリンピック出場も夢ではないと言われており、どうせやるなら強い部でと思っていた私は『オリンピック出場』という言葉に強く惹かれ、ボート部に入部しました」

当時、東大ボート部は埼玉県戸田の荒川の近くで1年中合宿をしており、休みは月曜日だけという生活だった。

「もともと運動には自信があり、球技はなんでもできたのですが、ボートは勝手が違いました。同じ動きの連続で、体力勝負。ガレー船の奴隷のような感じでとても辛かったです(笑)。ボート部の仲間には申し訳ないですが、今考えると同じ船ならヨットの方がよかったなと思います…。それでもしばらくは、才能がないなりに頑張ったのですが、結局3年で退部しました」

ボート部を辞めた柴田は、小学校時代に習っていたピアノの練習を再開する。先生につき、リサイタルにも参加した。

ピアノは趣味として、現在も続けている。

「好きな曲はショパンのエチュードやプレリュードです。クラシック好きというよりも、ピアノが好きなんです。ピアノは同じ動きの繰り返しで指も相当疲れるし、才能があるわけでもない点もボートと似ているといえば似ていますが、こちらはどういう訳か楽しいですね」

94年に弁護士登録

柴田が弁護士を将来の目標として意識し始めたのは、大学3年の終わりだった。大学卒業後の進路を検討する中で、平凡なサラリーマンでなく特別な仕事に就きたいと考え、弁護士を目指すことにした。

「当初は司法試験にサクッと合格するつもりでしたが、そうはいきませんでした。論文試験に合格しても口述試験で落とされたりと思ったより苦労しました。ピアノに時間をかけ過ぎたといつも言い訳しております」

柴田はその後、2年間の司法修習を経て、94年に東京弁護士会で弁護士登録する。

「弁護士になるには、当時は2年間修習しなければなりませんでした。最初の4カ月は、東京都湯島で修習し、その後各地の裁判所に配属され、1年4カ月研修を受けます。最後の4カ月、再び湯島で修習します」

湯島の研修所では、1クラス約60人の法曹の卵が、10クラスに分かれ修習した。柴田は配属地の長崎の検察修習で、窃盗や猥褻など軽犯罪の取調べなどを経験。海上保安庁の巡視船の乗船も体験した。

「同期の修習生には、弁護士としては型破りなユニークなひとが多かったです。今でも同期の弁護士とは連絡を取り、情報交換などをする仲です」

丸山和也国際法律事務所に入所

弁護士になった柴田は、弁護士で参議院議員の丸山和也氏の法律事務所に入所した。

「丸山先生は、弁護士として英語での交渉もできるタフネゴシエーターで交渉力のある方でした。ただやはり当時から、テレビで知られているのと同様「弁護士らしくない弁護士」でとてもユニークな先生でしたね。一緒に韓国に同行させていただいた時のことが印象に残っています。食事をしていると私のおかずを勝手に召し上がるなど、お茶目な一面がありました。また、空港の税関で私は行きも帰りもスムーズに通過できたのに、丸山先生は何かの密売人に見えたのか、念入りに調べられていましたね(笑)。たしかビートたけしさんが原付バイクで事故にあわれた直後くらいに、同じように原付バイクで何かに激突し、入院した丸山先生を病院までお見舞いに行ったこともあります」

同事務所に1年間勤めた柴田は、破産法で知られる宗田親彦法律事務所に入所し、一般民事を担当する。

「貸金返済請求から建物明渡請求、交通事故の損害賠償請求、調停など、ここで一般民事事件をたくさん経験しました」

当時はバブル経済が崩壊した頃で、証券被害が深刻な問題となっていた。

「一番印象に残っているのは、小学校卒業の学歴で一代で資産を築かれた、証券取引経験のまったくないお年寄りの事件です。日経平均がバブル最高値の3万9000円から2万9000円に下がった時に、銀行と証券会社から今がもう底だからと勧められ、新築の自宅を抵当に2億円もの借金をし、その2億円で一度に同一銘柄の株式型投資信託を購入した後、借金を返済できなくなって、銀行から自宅の競売申立をされたというものです。この方は、購入した投資信託が下がると、今度は次々と株やら何やらいろいろ買わされて、最終的には7億円くらいの損失が出ていました。当時、この種の事件について、被害者側の立場に立った裁判例も少しずつ出はじめ、証人尋問も終わった頃には裁判官も結構やる気を出してくれていたのですが、最終準備書面の提出のときに裁判官が変わってしまい、結局一審ですが訴訟は敗訴でした。自宅を抵当に2億円も借金して、それを一度に同一銘柄の投資信託に投資するなんて尋常ではなく、一か八かの大博打ですよね。銀行はいわゆる都銀でしたが、証券会社と一緒になってまったくの素人にそんな取引をさせていたわけです。バブルの時代の異常な金銭感覚と金融機関の常軌を逸したビジネスを目の当たりにした思いでした。金商法のできた今の時代では一発アウトだと思います」

ニューヨーク州弁護士に合格

柴田正人 弁護士インタビュー

約5年間、宗田親彦法律事務所で一般民事事件を経験した柴田は、新たなフィールドを求めてアメリカに渡る。

「国際的な舞台で活躍する弁護士になりたいというような野望はありませんでした。一度海外での生活を経験したかったのと、何かのきっかけになればと思い留学しました」

2000年6月に日本を発ち、9月からニューヨーク大学ロースクールで勉強を開始した。

「マンハッタンの南部にあるニューヨーク大学の寮に住みました。私にとっては初めての海外生活でした。さすがニューヨークだけあって世界各地から人が集まり、寮のロケーションもよく、すごく楽しかったです。もっともロースクールでの勉強が大変で、ミュージカルや旅行を楽しんだりするような余裕はありませんでした」

ニューヨークで最も苦労したのが英語だ。大学受験以後しばらく英語からは遠ざかっていたため、当初教授が授業で話す英語に付いていくのが大変だった。

「予習は欠かせませんでした。周りに日本人留学生がたくさんいましたが、海外生活経験のある人が多く、私のように“純粋ドメスティック”な人は多くなかったです。この時ほど帰国子女を羨ましく思ったことはありませんでした。授業中に「フンフン」と頷いている日本人がいると石を投げたくなりましたね(笑)」

柴田は01年5月にロースクールを卒業すると、7月に試験を受け、見事ニューヨーク州の弁護士資格を獲得した。

柴田が日本に戻った同年8月の1カ月後、アメリカ同時多発テロ事件が発生する。

「毎日、世界貿易センタービルを眺めながらロースクールに通っていたので、倒壊した様子をテレビに見た時は大きな衝撃を受けました。まだニューヨークで勉強を続けていた友人もおり、安否を気遣うメールが飛び交いました。幸い、知り合いで亡くなった方はいませんでした」

米系弁護士事務所で不動産流動化を経験

01年、アメリカから戻った柴田は米国系法律事務所の神田橋法律事務所(現ホワイトアンドケース法律事務所)に入所した。当時、柴田には少しでも早く日本に帰国して働きたいと考えていた。「しばらく米国に留まる選択肢もありましたが、ニューヨークの日本人弁護士はそんなにバリバリ仕事をこなしている様子がなかったため、すぐに日本の法曹界に復帰することに決めました」

神田橋法律事務所は、全世界に約2000人の弁護士抱える巨大ローファームであるホワイトアンドケース法律事務所の日本拠点だ。そこで柴田は米国企業の現地法人の法務を担当した。

「それまでの一般民事事件の世界とはまったく別世界でした。不動産流動化など、いわゆるストラクチャーもの、保険会社の倒産事件等を担当しました」

その後、03年にアンダーソン毛利法律事務所に移籍し、米国投資銀行をクライアントにした不動産流動化のほか、事業再生案件など、企業法務の最前線にフィールドを拡げていった。

証券会社に移籍しM&A案件で活躍

柴田正人 弁護士インタビュー

05年、柴田は大和証券SMBCへ転身を果たす。

「アンダーソン毛利法律事務所でM&Aの一部を担当したのをきっかけに、当時増えてきたM&Aに関心を持つようになりました。M&Aの現場や全体像を見たいという気持ちから、大和証券を選びました」

大和証券SMBCでは、企業提携部の次長として、再生事件や金融分野におけるファイナンシャルアドバイザー業務を担当し、企業の売り手と買い手のマッチング、デューデリジェンス(事前調査)のサポート、買収先の企業価値の評価、M&Aに関連する法的アドバイスの提供等を行った。「当時はまだ、堀江貴文、村上世彰、スティールパートナーズなどが活発に買収劇を繰り広げていた時期で、企業提携部は沸き立っていました。ここでは、法律だけでなくそれまで縁がなかった証券業務の他会計や税務に関する対応力もつき、よい経験ができました」

大和証券SMBCでの約2年半の勤務を経て、柴田は07年、弁護士法人キャスト糸賀(現弁護士法人キャスト)にパートナー弁護士として参画する。

「元々弁護士に戻るつもりでした。キャストを選んだのは、M&A案件を積極的に手掛けていたこと、また今後増加することが見込まれる中国案件で圧倒的な実績をもっていたことが理由です」

中国案件の専門家を目指す

柴田はキャストで働く醍醐味について次のように語る。

「テレビ会議などを通じ、頻繁に中国や香港の現地スタッフと会議しながらコミュニケーションを取り、仕事を進めるなど、日常的に日中にまたがったグローバルな法務を手掛けられるのが楽しいです。テレビ会議だけでなく、実際にも東京事務所には中国からスタッフが入替わり立ち替わりやって来ますし、日本人弁護士も中国や香港と日本の間を頻繁に行き来します。その他、弁護士だけでなく、会計士や税理士、コンサルタントなど、異業種のプロフェッショナルと協力しながら案件に取り組めるのもとても刺激的です」。

現在、柴田は日本語と英語に加え、中国語での業務にもチャンレンジしている。

「08年に上海に3カ月駐在し、中国語を勉強しました。中国語は楽しいですね。その後しばらく東京を中心に勤務しておりましたが、今後は東京と上海の往復生活が始まります。中国語を使った業務を今後どんどん増やしていきたいですし、香港での英語の案件にも関わっていきたいと考えています」

中国案件はとてもやりがいがあるという。

「日本の案件では普段扱わない税務、税関案件などが新鮮で面白いです。今後は中国案件でも専門性を深めて行きたいと思っています」

これまで複数の日本の法律事務所と米系法律事務所で経験を積み、証券会社での勤務を経て、民事から企業法務まであらゆる分野を経験した柴田。キャストという新しいフィールドで、中国案件という新たな強みを加え八面六腑の活躍をするために、貪欲に中国案件に挑む日々がしばらく続きそうだ。

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